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Poison & Medicine ブログ 毒と薬

2015.3.25

豊寿苑

歴史と文化

豊寿苑 春の祭事「豊川稲荷祭」~ おいなりさんは深い!

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豊寿苑の敷地内にある豊川稲荷の祠(右下)とのぼり(クリックで拡大)

平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。

例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。

現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。

豊寿苑内での祈祷の様子。奥は未年を迎えたご利用者名で紅白の布を奉納。

豊寿苑内での祈祷の様子。奥は未年を迎えたご利用者名で紅白の布を奉納。

本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。

曹洞宗のお坊様ですが勢いよく真言を唱えます。

曹洞宗のお坊様ですが、経文を勢いよく振りかざして真言を唱えます。

紅白ののぼりに書かれてあるように尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。

では、なぜ「ダキニ天」「狐」と結びついたのでしょうか。

この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生『狐の日本史』(日本エディタースクール 2001年)の中でこう推理しています。

中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』

中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』

ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていました。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。

もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化していうとこういうことです。

当施設の掛け軸に描かれたダキニ天

当施設の掛け軸に描かれたダキニ天(クリックで拡大)

ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。

持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです(『狐の日本史』表紙参照)。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。

密教の法具、五鈷杵(ごこしょ)も使っていました。

密教の法具、五鈷杵(ごこしょ)も使っていました。

次に「狐」「稲荷」の結びつきについて考えます。

伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。

こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。

祈祷のあと、各人が順にお参りしました。

祈祷のあと、各人が順にお参りしました。

それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧のおこなった加持祈祷が邪法とされていたことと関係があります。

タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲と雷神の関係とか、戦国武将と稲荷信仰とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。

私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど深い歴史と文化と信仰があぶり出されてきて興味は尽きません。

「祈る」ことは心を空(くう)にすることだと感じます。

「祈る」ことは心を空(くう)にすることだと感じます。

《参考文献》
・中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)

平成27年3月19日(木)、豊川稲荷祭をおこないました。
例年ならば旧暦2月の初午(はつうま)ですが、今年はその日が3月31日に当たっていたため、前倒しして、旧暦1月の三の午に当たる19日になりました。
現在、豊寿苑が建っている場所には以前、毛織物工場があって、豊川稲荷の祠はその時代からそこにありました。今年は運悪く雨降りだったことから、場所を変えて豊寿苑内の和室前でおこないました。
本山は愛知県豊川市の豊川稲荷です。鳥居はありますが京都の伏見稲荷のような神社ではなく曹洞宗の寺院です。正式には「円福山豊川閣妙厳寺」(えんぷくざんとよかわかくみょうごんじ)というそうです。だから、お祭りには曹洞宗のお坊さんが来られてお経を唱えてご祈祷します。
紅白ののぼりに書かれてあるように「?枳尼真天」をお祀りしています。これは「だきにしんてん」と読み、元はインドの民間信仰の下級女神で、平安時代に密教と共に入ってきました。
では、なぜ「ダキニ天」が「狐」と結びついたのでしょうか。
この点について、私が東京で編集者をしていた頃、お世話になった名著『狸とその世界』で知られる元立正大学教授で、昨年お亡くなりになった中村禎里先生が『狐の日本史』の中でこう推理しています。
ダキニは元来、人の死体を食らう鬼神でした。狐もまた、動物の死肉を食らい、しかもしばしば葬地に巣を作っていた。ここからダキニと狐のイメージが重なったのではないかと。
もっとも中村先生の分析はもっと複雑で錯綜しているのですが、ものすごく単純化いうとこういうことです。
ところで、写真にあるようにダキニ天は、狐にまたがる女神として描かれています。これは、中村先生によると、農耕神としての狐信仰と習合したダキニ天像が水神として蛇信仰と結びついた弁財天の姿から導かれたためだといいます。
持ち物も弁財天を模倣して宝珠と剣を持つのが一般的だったようです。ところが、当苑が所有する豊川稲荷のレプリカの掛け軸を見ると、左手は富と財宝をもたらすとされている宝珠ですが、剣に代わって右手は藁束を天秤棒に掛けて肩で担いでいます。商売繁盛、農耕豊穣神としてのイメージがますます強くなったということですね。ダキニ天も狐も表情が柔和で、恐ろしい鬼神のイメージはかけらも感じられません。
次に「狐」と「稲荷」の結びつきについて考えます。
伏見稲荷大社に近い京都の稲荷山(232m)は、古くから農耕の神が坐す場所とされてきました。それが民間の農耕神としての狐信仰と重なったというわけです。しかも、稲荷山は、ダキニ天を奉じる東寺密教僧の修行の場だったようです。
こうして「稲荷」−「狐」−「ダキニ天」のトライアングルが完成しました。
それにしても、「狐憑き」といい、「おちょぼさん」の愛称で知られる岐阜の「千代保稲荷」にまつわる呪いのわら人形といい、狐には、いまだに暗くてネガティブなイメージがあります。これは中国から伝わった妖狐のイメージが流布したこと、ダキニ天法という、鎌倉時代以降、密教僧がおこなった加持祈祷が東寺から邪法と感じとられていたことと関係があります。
タントリズムを思わせる愛の呪法とか、稲荷信仰にかんして書きたいことはまだたくさんありますが、長くなるのでこのあたりにしておきます。
私たちにとっては、身近な存在である「おいなりさん」ですが、調べれば調べるほど興味があふれてきます。
参考文献
中村禎里『狐の日本史 古代・中世篇』(日本エディタースクール 2001年)
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