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Poison & Medicine ブログ 毒と薬

2024.10.16

歴史と文化

お馬祭りがやって来た!オマントに乗った神様

10月13日、日曜。好天に恵まれた3連休の中日。
小牧神明社の秋の大祭「南宮・天王祭(なんぐう・てんのうまつり)」、通称「五本棒オマント祭」がおこなわれました。

オマントとは「馬の塔」が転訛(てんか)したもの。
馬の塔(オマント)は、秋の祭礼として豪華な馬具で飾った馬を中心に隊列を組み町内を巡って小牧神明社に奉納するという行事です。

戦後までは小牧のどの地区もオマントを出していましたが、現在は当苑のある東町区に伝わる「五本棒オマント」だけになりました。他の地区では獅子頭を先頭に掲げて行列で練り歩くかたちになっています。

「五本棒オマント」は、尾張藩初代徳川義直公から下賜(かし)されたという五本棒を馬の鞍(くら)に飾り立てた特別なオマントです。

それは「端馬(はなうま)」と呼ばれて、他のオマントが追い抜いたり、先に境内に入ってはならないとされていました。

行列は、義直公が描いたとされる猿の絵の旗(現在はレプリカを使用)を掲げた足軽姿の人たちが先導します。これには猿を馬の守り神と考えた「厩猿(うまやざる)信仰」があると思います。

行列は馬宿を出発して町内の秋葉神社へ奉納したあと、町内を巡って神明社へ向かいます。その途中の休憩所になっているのが当苑駐車場です。

午前10時20分頃、威勢のいいかけ声と共にオマントが当苑駐車場に到着。約50人のご利用者が横一列に並んで出迎えました。

50人から差し出されたニンジンを馬はあっという間に完食。よっぽどお腹が空いていたんでしょう。

こうして、ご利用者たちとの心温まるふれあいののち、「五本棒オマント」の行列は神明社へと出発しました。


ところで、なぜ「五本棒」なのでしょう?

馬は神の乗り物と考えられていたので、「馬の塔」は神の宿る柱=依り代(よりしろ)です。尾張や西三河では、御幣(ごへい)や御札(おふだ)を馬具に立てる地域もあります。
同じように神様を敬う気持ちから「御本棒」と呼んでいたのが、いつしか「五本棒」に変化したのだと思います。

日本において「五」という数が意味をもつのは、仏教における五大「地水火風空」か、陰陽道の「五芒星(ごぼうせい)」ぐらいで、これらはどう考えても「五本棒」とは関係なさそうです。

「五」という数に深い意味はなく、多くの棒を横一列に並べて立ててゴージャスさ(過剰な美意識)でライヴァルを圧倒するねらいがあったのではないでしょうか?(写真は、鞍の左右に刺繍で施された騎馬武者)

春日井市勝川に伝わるオマントは、これがさらにエスカレートしてクジャクが羽を広げたような、こう言ってよければ「デコトラ」のようなド派手な姿です。


最後に、「五本棒オマント祭」の正式名である「南宮・天王祭」についてふれたいと思います。

この付近には南宮社も天王社もありません。ではなぜ「南宮・天王祭」なのでしょう?
それは一町村一神社を定めた明治39年(1906) の神社合祀(ごうし)令によって、かつてあった南宮社や天王社が廃社になったせいです。

南宮社は現在の小牧小学校の校庭にありました。本社は西濃の垂井町にある南宮大社と思われます。祭神は金山彦神(かなやまひこのかみ)で鍛冶(かじ)神です。

天王社は津島牛頭天王(ごずてんのう)社の分社で、明治の神仏分離令の結果、津島神社と改名し小牧神明社の西側にありました。

祭神は建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した荒ぶる神スサノオです。その実態は怖ろしい形相をした疫病の神、牛頭天王(ごずてんのう)でした。

かつては南宮社も天王社もその土地の神様である産土神(うぶすながみ)として人びとの信仰を集めオマントの中心だったのが、現在は祭礼として名を残すのみというのは寂しい気がします。


秋の収穫をもたらしてくれた田の神様に感謝して特別にあしらえた馬の塔(オマント)に乗っていただいて、幸を振りまきながら地区を巡って山までお送りするというのがこの祭は、神道とか仏教とかを超えた農村の素朴な民間信仰から生まれたものです。

明治の神道国教化政策のなかで消し去られようとした土着の神々への信仰がオマントを通じて現代に引き継がれていることを私たちは忘れてはならないでしょう。

(文・写真 塚原立志)

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