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Poison & Medicine ブログ 毒と薬

2013.8.17

歴史と文化

歴史あふれるランコース小牧山(第2回)

写真1 小牧山城大手道

(写真1)小牧山城大手道

小牧山の南麓に建つ市役所の旧本庁舎のすぐわきに小牧山城の大手道がある。横木の階段が一直線に続く別にどうってことのない登り道だ(写真1)。信長時代には現在より1.5mほど広い5.4m幅あり、道の両脇には土塁と塀が連なり家臣団の屋敷が並んでいたらしい。
道を150mほど登っていくと、まっすぐ行く道と右に曲がる道のT字路にぶつかる。右に曲がる道が信長時代の大手道である。道幅は狭くなり、これまたどうってことのないつづら折りのクネクネした道が続く(写真2)。
坂を上り詰めると、茶色いチャートの巨石がところどころに散らばった頂上付近に出る。このあたりから上が上下2段からなる総石垣づくりの主郭があったという場所だ。(写真3)は主郭に入る手前の斜面の石垣発掘調査の様子。2008年撮影。
千田嘉博『信長の城』によると、家臣の屋敷があった山麓から中腹まではあえて防御性の弱い直線道にし、信長がくらした中腹から上は防御にすぐれた屈曲道にしたのだという。そして、山腹から山頂の本丸にかけての中心部分を、幾重にも石垣をはりめぐらすことによって自らの権威と超越性を表現していたというのである(写真4)。
ランニングのとき、山頂部の西側の柵に私はいつも水分補給用のドリンクをぶら下げている。そこから下をのぞくと緑色のネットで長方形に囲われた中に小石が大量に積まれているのが見える。はじめは近年の発掘の時に取り除いた瓦礫を一個所に片づけたものと思っていた。
だが、前掲の千田嘉博『信長の城』を読んでいて、これらは石垣の表面に見えている大きな「面石(つらいし)」の背後で、水はけをよくするために詰めた「栗石(ぐりいし)」(裏込石)とわかった。栗石を使ったことといい、大きな石のすきまに「間詰石」(まづめ)でていねいに整形していることといい、小牧山城の石垣には当時最先端の技術が用いられているという。
それは「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれ、比叡山の麓にある滋賀県の坂本に住んでいた石工集団、穴太衆の技術である。ほかにも、清水寺の本堂のように、山の斜面に長い柱を立てて空中にせり出した建物を建てる「掛け造り」の技法が使われた可能性もあるという。このように信長は畿内からすぐれた技術者集団を招いて小牧山城を作ったと思われる。
※写真5はこのGWに比叡山へ行ったとき、坂本側の麓にある日吉大社で撮影したもの。穴太積みと掛け造りが確認できる。
(つづく)

小牧山の南麓に建つ市役所の旧本庁舎のすぐわきに小牧山城の大手道がある。横木の階段が一直線に続く別にどうってことのない登り道だ(写真1)。信長時代には現在より1.5mほど広い5.4m幅あり、道の両脇には土塁と塀が連なり家臣団の屋敷が並んでいたらしい。

この道を150mほど登っていくと、まっすぐ行く道と右に曲がる道のT字路にぶつかる。右に曲がる道が信長時代の大手道である(写真2)。登るにつれて道幅は狭くなり、どうってことのないつづら折りのクネクネした道が続く(写真3)

(写真2)一直線の大手道を右折

(写真2)一直線の大手道を右折

古井戸跡がある中腹の坂

(写真3)つづら折りの道が続く中腹の坂。

坂を上り詰めると、茶色いチャートの巨石がところどころに散らばった頂上付近に出る。このあたりから上が上下2段からなる総石垣づくりの主郭があったという場所だ。
(写真4)は主郭に入る手前の斜面の石垣発掘調査の様子。

(写真3)発掘調査の様子

(写真4)発掘調査の様子。2008年撮影。

千田嘉博『信長の城』によると、家臣の屋敷があった山麓から中腹まではあえて防御性の弱い直線道にし、信長がくらした中腹から上は防御にすぐれた屈曲道にしたのだという。そして、山腹から山頂の本丸にかけての中心部分を、幾重にも石垣をはりめぐらすことによって自らの権威と超越性を表現していたというのである(写真5)

(写真4)主郭をとりかこむ穴太積みの石垣

(写真5)主郭をとりかこむ穴太積みの石垣

ランニングのとき、山頂部の西側の柵に私はいつも水分補給用のドリンクをぶら下げている。そこから下をのぞくと緑色のネットで長方形に囲われた中に小石が大量に積まれているのが見える。はじめは近年の発掘の時に取り除いた瓦礫を一個所に片づけたものと思っていた。

だが、前掲の千田嘉博『信長の城』を読んでいて、これらは石垣の表面に見えている大きな「面石(つらいし)」の背後で、水はけをよくするために詰めた「栗石(ぐりいし)」(裏込石)とわかった。栗石を使ったことといい、大きな石のすきまに「間詰石」(まづめ)でていねいに整形していることといい、小牧山城の石垣には当時最先端の技術が用いられているという。

それは「穴太積み」(あのうづみ)と呼ばれ、比叡山の麓にある滋賀県の坂本に住んでいた石工集団、穴太衆の技術である。ほかにも、清水寺の本堂のように、山の斜面に長い柱を立てて空中にせり出した建物を建てる「掛け造り」の技法が使われた可能性もあるという。このように信長は畿内からすぐれた技術者集団を招いて小牧山城を作ったと思われる。

(写真6)は、このGWに比叡山へ行ったとき、坂本側の麓にある日吉大社で撮影したもの。穴太積みと掛け造りが確認できる。

(写真5)滋賀県、日吉大社の穴太積みと掛け造り

(写真6)滋賀県、日吉大社の穴太積みと掛け造り

(つづく)

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