Poison & Medicine ブログ 毒と薬
2013.8.14
歴史と文化
歴史あふれるランコース小牧山(第1回)
自宅から商店街を通って西へ1.5kmぐらい先に小牧山がある。
今年は織田信長が小牧山に築城して450年の節目に当たるとして市はPRに力を入れている。今年の『豊寿苑夏祭り』のポスターにも市が作成した信長のイラストを許可を取って使わせてもらっている。
この、月代(さかやき)を剃らない総髪の茶筅髷(ちゃせんまげ)、南蛮胴風の漆黒具足にビロード仕立ての緋色のマントをまとったモダンな信長像は、黒澤明監督の『影武者』が作ったものだろう。小牧山時代の信長のイメージにそぐわない気がするが、若いころ、傾き者(かぶきもの)といわれていた信長のこと、ありえなくもない。だからといって、EXILEみたいなヤンキー系が入った最近の信長のイメージ(元は反町隆史か?)はどうかと思う。
小牧山城はこれまで信長が斎藤氏の美濃を攻略するための足場とした仮の城のように考えられてきた。ところが、近年の発掘調査で、小牧山城は、当時としてはきわめてめずらしい総石垣づくりの主郭(本丸)と、麓には武家屋敷と町屋からなる本格的な城下町だったことがわかってきた。
小牧山は私のランニング・コースなので、発掘調査の進捗状況はよく目にしてきた。なんといっても驚くのは、現在、歴史館が建っている山頂周辺の変貌ぶりだ。かつては木々でおおわれていたが、信長時代の石垣が次々と出てきたことから現在は地表面がむき出しになっている(写真)。
ちなみに現在、小牧城といわれている歴史館は、昭和43年(1968)に名古屋の実業家から小牧市に寄贈された京都の飛雲閣を模した疑似天守閣。いまとなっては、現在の清洲城や墨俣城と称するチープな建造物と同じく、歴史的な遺構と景観を損なうものであり悲しい気分になる。
現在、歴史館の北西に建っている「御野立聖蹟」と書かれた石碑(写真)は、昭和2年(1927)の陸軍特別大演習に視察に訪れた天皇陛下が休息されたのを記念したもの。
千田嘉博氏の『信長の城』(岩波新書)によると、この場所にのちに天守に発展していく櫓台があったことを推測させる上段の高さ4mにも及ぶひときわ高い石垣が築かれていたという。石碑の周囲に集められている巨石は、もともとは信長時代の石垣に使われているらしい。小学生のころ、写生で小牧山を訪れたとき、この石碑、というよりも石碑の下の大石を熱心に描いて変人扱いされたが、信長時代の貴重な石垣の石を描いていたのだ。
陸軍特別大演習は、明治31年(1898)から日中戦争が始まる前年の昭和11年(1936)まで、毎年11月、全国各地をまわっておこなわれていた。
昭和2年にこの地方で行われた大演習は、昭和天皇が天皇陛下になって最初の大演習で、即位礼と大嘗祭を兼ねた大礼の前年に当たる。それは地方視察も兼ねており「君民一体」の「国体」を目に見えるかたちで表現した絶好のイベントだった(原武史『昭和天皇』(岩波新書))。若き昭和天皇を明治天皇の再来とみなすカリスマ化のキャンペーンだったわけである。
こうしてカリスマ化されていく天皇像は昭和初期の超国家主義を育み、この思想に共感した青年将校が、二・二六事件において小牧出身の陸軍教育総監、渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)を「君側の奸」(くんそくのかん)として殺害するにいたる。
皮肉なことに、小牧山の麓には殉職した渡辺錠太郎陸軍大将の胸像が建てられた。現在は生家の菩提寺で、小牧山へ向かうランニング・コース沿いにある西林寺に移されている。ちなみに、渡辺大将の次女がノートルダム清心学園の理事長で修道女の渡辺和子さんである。
私の母方の実の祖父は軍人で、二・二六事件当時、八王子に駐屯していた。母によると、陸軍士官学校の同期だった青年将校から叛乱に加わるよう誘われたが、渡辺大将が保証人だったことから中立的態度で臨んだらしい。二・二六事件後は左遷され、台湾、朝鮮半島、満州、中国各地を転々とし、内地から沖縄戦に向かう海上で最期を遂げた。
(つづく)